愛しの他人

他人がすき

徒歩圏のダンディズム

f:id:otter_fes:20150207195417j:plain

 

以前書いた天国のようなBarについて、通称を「Bar天国」とする。Bar天国では 水曜日と土曜日になると、オープンからほどなくマスターとお姉さんがカウンターの端の席にグラスとジャックダニエルのボトルを準備する。19時45分にはお菓子を小皿に出し、厨房でマスターが銀杏などを炒り、カウンターでは氷をピックで割る。きっかり20時にジョージさんがやってくる。

ジョージさんはいつものお寿司屋さんで夕飯を済ませ、ピアノ・バーで馴染みのピアニストの演奏を聞いたあとに立ち寄ってくれるのだ。決まってジャックダニエルのバーボンソーダを飲み、ボトルは毎月きっかり1本空く。この店との付き合いは20年、マスターとの付き合いはもう40年近くなるのだという。

働き始めてすぐの頃、水曜と土曜は特に気が楽だった。マスターが仕事に慣れないスタッフにはジョージさんの前に立つよう計らってくれるからだ。彼はお客さんのプロなので、誰よりも店のことを知っており、スタッフが何に気を配るべきで、何を気にしないで良いのか、完璧にエスコートしてくれる。チュートリアル的な存在として、カウンターの外側で見守ってくれる人だったのだ。

ジョージさんは独身で、少し背が低く、いつも小綺麗なスーツを着ていて、常にご機嫌な人だった。初めて務めた会社一筋で働き続けており、すごく出世したり、お金持ちになったりするわけではなかったけど、出来る範囲でオシャレを工夫して、1週間の中に定めた予定をキッチリ守って、楽しみながら暮らしている。

ジョージさんがどれだけ素敵なおじさんだったか、思い返すとキリがないのだけど、彼が60歳になった夜のことが特に記憶に残っている。主役を問わず誕生日やお祝いごとの席が大好きなジョージさんは、お店で用意したケーキを食べ、みんなが用意したお花やプレゼントを貰い、いつも以上にニコニコで、マスターに向かって話し始めた。

「僕は今日からおじいさんになりましたからね、赤いちゃんちゃんこは着ないけど、色んな事を引退しますよ」

60歳なんて、マスターが70歳のBar天国では若造である。まして彼はオシャレで若々しい人なので、なぜそんなこと仰るんですか?お若いじゃないですか、と言うと、とんでもない!という調子で返された。

「還暦ってね、昔だったら杖ついたご隠居でしょう。今はみんな働いてるけど、僕は順番交代が大事だと思ってるからね。定年だって伸ばせるけど、キッパリ今年で退職にします。何とか蓄えで死ぬまで暮らせそうだしね。老人になったら、なんでも若い人に順番を譲って、交代しないとね」

ジョージさんは独居を寂しいとは思わず、自分の暮らしを気に入っていると話していた。隠居後も、週に2回続けてきた、ささやかな楽しみとともに暮らしていくのだろう。何十年も同じコースなので、もちろん立ち寄るどのお店も彼と仲が良く、連絡先も知っている。もし、いつものコースに彼が現れなかった時はどうなるかというと、事前連絡無しの“無断欠勤”だった場合は、彼の行きつけのお店間で連絡を取り合うのだ。お寿司屋さんと、ピアノ・バーと、Bar天国で「そちら行かれました?」「ウチもいらっしゃってないです」となったら、本人にメールと電話で連絡を取る。それでも返答がなかったら、店のスタッフ達が家まで安否を確認しに行くだろう。何人もで、慌てて。

「僕が家で倒れてても、多分3店舗のうちの誰かが見つけてくれるね」と冗談混じりに話していたことがあるけれど、本当に行政でもなんでもなく、夜の街のネットワークが彼のセーフティーネットになっているのだ。常連も極まると思わぬオプションが付いて来る。彼がお金を沢山使ってくれる、いわゆる「上客」なのかというと、そんなことはない。ただ、「馴染みのお客」なのだ。“超”のつくレベルの。

みんなジョージさんが大好きだった。それは家族や恋人、友達や同僚などどれでもない、お店とお客さんという関係だけにある不思議な愛情だったと思う。もしかすると、キリスト教伝来の時に、神の愛にあたる“Love”を「愛情」ではなく「御大切」と訳したという心持ちに近いかもしれない。

ジョージさんは宣言通り、60歳で会社を定年退職し、「おじいさんらしく」と白髪混じりのあごひげを伸ばし始めた。よく似合っていて、ダンディですねとみんなで褒めた。

彼が退職前の10年間ほど、勤務先の経営難など様々な不運から、風当たりの強いポジションに置かれ続けていたと知ったのは、かなり後になってからだった。定年退職の日でさえも、花束どころか10代から務め続けた社員に向ける労いの言葉すらなかったという。

お店で見かける彼は、いつもニコニコで、毎日に何の辛いこともないといった風に穏やかだったので、実情を知ったときはとても驚いて、改めて考えこんでしまった。

オシャレなおじさんだなぁとは思っていたけど、本当に“洒落た”人というのは、お洒落で居られる場所を選んでいるのかもしれない。もしかすると、ジョージさんはずっと、週2回ぐるっと馴染みの店を歩いて回ることで、親切で愛されるお洒落な人間としての時間を作って、それでもって他の日々を頑張っていたのかもしれない。

その夜は、カラオケがとても上手なお客さんが渋い声で谷村新司の『ダンディズム』を歌ってくれたので、店内は大盛り上がりだった。ジョージさんも大はしゃぎだったが、カウンターでグラスを拭きながら、彼が「御大切」にされ続けられたのは、他ならぬジョージさんのダンディズムの賜物なのだろうと考えていた。